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第5話 夫は、謝る代わりにバッグを買った

Penulis: 雫石しま
last update Tanggal publikasi: 2026-08-23 10:51:14

結婚して一か月。

私は、龍斗さんとの生活に少しずつ慣れてきていた。朝は六時に起きる。朝食を作り、龍斗さんを送り出す。昼間は家事を済ませ、夕方になれば夕食の準備をする。窓から差し込む朝の光が、広いリビングを淡く照らす。龍斗さんが帰ってくる時間は、日によって違う。遅い日は、日付が変わることもある。それでも私は、なるべく食事を用意して待った。妻だから。それが自分の役割だと思っていた。そして。龍斗さんも、そんな私がいる生活に慣れてきていた。

 

「由紀江」

「はい?」

「今日、帰りは八時くらいになる」

「わかりました」

「夕食は?」

「麻婆豆腐にしようと思っています」

「そう」

「何か食べたいものがありますか?」

「任せる」

「わかりました」

 

そんな会話が増えた。以前よりは、夫婦らしくなった気がする。少なくとも私は、そう思っていた。けれど。ある日の夜。その穏やかな生活は、あっけなく崩れた。

 

◇

 

「今日は少し遅くなるから」

 

朝、龍斗さんはそう言っていた。ネクタイを締めながら、いつものように。

 

「わかりました」

 

私はいつも通り見送った。その日は買い物を済ませ、夕方には家へ戻った。夕食の支度をする。煮物を火にかける。魚を焼く。味噌汁を作る。湯気が立ち上り、出汁の香りがキッチンに満ちる。

 

時計を見る。午後八時。まだ帰ってこない。

九時。連絡はない。

十時。私は料理にラップをかけた。

 

先に食べてもよかった。けれど。何となく待ってしまう。窓の外の夜景が、時間とともに静まり返っていく。十一時を過ぎたころ。玄関の扉が開いた。

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

私はキッチンから出た。龍斗さんは、いつもと少し違っていた。ネクタイが緩んでいる。疲れているようにも見える。シャツに薄いシワが寄っている。お酒と香水の香りがした。

 

「遅かったですね」

「ああ」

「夕食、温めますね」

「いらない」

「でも……」

「外で食べてきた」

「そうですか」

 

私は少し残念に思った。せっかく作ったのに。

 

「じゃあ、片付けますね」

 

そう言ってキッチンへ戻ろうとした。そのとき。

 

「由紀江」

「はい?」

「今日、どこにいた?」

「家にいました」

「昼間は?」

「買い物に出ました」

「誰と?」

「一人です」

 

龍斗さんの表情が変わった。視線が、鋭く私を捉える。

 

「本当に?」

「はい」

「誰かと会ったんじゃないのか?」

「……どうしてですか?」

「別に」

 

龍斗さんはソファへ座った。ワイングラスを取り出し、深紅の液体を注ぐ。

私はその様子を見ながら、少し不安になった。

空気が、急に重くなる。

 

「何かありました?」

「何もない」

「そうですか」

 

私はキッチンへ戻った。その瞬間。背後で、グラスが置かれる音がした。次の瞬間。ガシャーン!大きな音が響いた。床に跳ねたガラスの破片が、夜の静けさを裂く。

 

「……!」

 

振り返る。床にワイングラスが散らばっていた。深紅の液体が、大理石の床に広がっている。

 

「龍斗さん……?」

「俺は、君が誰と会ったか聞いている」

「誰とも会っていません」

「嘘だろ」

「嘘じゃありません」

「じゃあ、どうしてそんなに隠す?」

「隠してなんて――」

「俺に言えない相手なのか?」

 

私は息を呑んだ。

 

「何を言っているんですか?」

「俺の知らない男と会っていたんだろ」

「会っていません!」

 

思わず声が大きくなった。龍斗さんの目が険しくなる。

 

「……」

「私は買い物へ行っただけです」

「本当に?」

「はい」

「なら、何で俺がこんなに腹が立つんだ」

「私に聞かれてもわかりません」

 

龍斗さんが黙る。その顔には、怒りと苛立ちが混ざっていた。拳が、わずかに震えている。

 

「……俺は君の夫だぞ」

「知っています」

「だったら」

 

龍斗さんは言葉を止めた。そして。床へ散ったガラスを見た。

 

「……」

 

その瞬間。私は一歩後ろへ下がった。足元に、小さなガラス片がある。避けようとした。けれど。足が滑った。

 

「きゃっ――!」

 

身体が傾く。咄嗟に手をついた。鋭い痛みが右手首を走った。

 

「……っ!」

 

私は床へ座り込んだ。冷たい大理石が、掌に食い込む。

 

「由紀江!」

 

龍斗さんの声が聞こえた。

 

「痛い……」

 

右手首を押さえる。見ると、少し赤く腫れていた。ガラスの破片も肌にめり込んでいる。血が、薄く滲む。龍斗さんが近づいてくる。

 

「大丈夫か?」

「……病院へ行きます」

「そこまでしなくていい」

「痛いんです」

「冷やせば治る」

「病院へ行きます」

 

私は立ち上がった。足元のガラスを避ける。痛みが、脈打つように広がる。

 

「待て」

「……」

「俺が送る」

「結構です、飲酒運転になります」

 

自分でも驚くほど冷たい声が出た。私はバッグを手に取った。

 

「一人で行けます」「由紀江」呼び止める声を背中で聞いた。でも。振り返らなかった。

 

◇

 

救急外来は、夜遅くでも人が多かった。私は受付を済ませ、椅子に座る。右手首がズキズキと痛む。白い壁と消毒液の匂い。遠くで聞こえる医療機器の音。けれど。それ以上に胸が痛かった。私は、龍斗さんに怒鳴られたことより。グラスを叩きつけたことより。怪我をした私を見て、「そこまでしなくていい」と言われたことが悲しかった。どうして。心配してくれないのだろう。そのとき。

 

「由紀江さん」

 

聞き覚えのある声がした。顔を上げる。

 

「……一条先生?」

 

一条先生が立っていた。白衣の裾が、少し揺れている。

 

「どうしてここに?」

「救急外来の担当医から聞きました。右手首を痛めたそうですね」

「はい」

 

一条先生が私の手を見る。優しく、慎重に。

 

「腫れていますね」

「たいしたことはないと思います」

「それは検査してから判断しましょう」

 

先生は少しだけ間を置いた。

 

「何があったんですか?」

 

「……」

 

私は答えに詰まった。

 

「夫と口論になって」

「はい」

「そのとき、グラスが割れて」

「はい」

「避けようとして転びました」

 

一条先生は黙って私を見る。その目は、責めない。ただ、静かに受け止めている。

 

「ご主人は一緒ではないんですか?」

「……来ていません、ワインを飲んでいたのでタクシーで来ました」

「そうですか」

 

先生の声は穏やかだった。

 

「由紀江さん」

「はい」

「一つだけ聞かせてください」

「何でしょう」

「ご主人から、直接暴力を受けたことは?」

「……ありません」

 

私は首を横に振った。

 

「殴られたりはしていません」

「わかりました」

 

先生はそれ以上、踏み込まなかった。ただ。

 

「でも、怪我をしたことまで、ご自分の責任にしないでください」

 

私は顔を上げた。

 

「……」

「相手が怒って物を投げたり、壊したりしたことで怪我をしたのなら、それはあなたの責任ではありません」

 

その言葉が胸に刺さった。温かく、それでいて鋭く。

 

「……ありがとうございます」

「まだお礼を言う必要はありませんよ」

 

先生が少し笑う。

 

「まずは治しましょう」

 

◇

 

検査の結果、骨折はしていなかった。軽い捻挫と打撲。しばらく固定していれば問題ないという。ガラスの破片も綺麗に取り除き、傷は浅くて済んだ。白い包帯が、右手首を優しく包む。

 

「よかった……」

 

私はほっと息を吐いた。

 

「ただ、痛みが続くようなら、また来てください」

「はい」

 

一条先生が私の手首を確認する。

 

「無理に使わないでください」

「わかりました」

「それと」

 

先生が少しだけ声を落とした。

 

「今夜、帰る場所は大丈夫ですか?」

 

私は答えられなかった。帰りたくない。そう思った。でも。

 

「……帰ります」

「ご主人のところへ?」

「はい」

「そうですか」

 

先生はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに頷く。「では、気をつけて」「ありがとうございました」私は頭を下げた。病院を出る。夜風が冷たかった。街灯の光が、濡れたアスファルトを照らしている。

 

◇

 

マンションへ戻ると。龍斗さんはリビングにいた。私を見るなり、右手へ視線を落とす。包帯が、白い光の中で目立つ。

 

「病院へ行ったのか」

「はい」

「どうだった?」

「骨は折れていません」

「そうか」

 

それだけ。私は少し待った。何か言ってくれるかと思った。

 

「……」

 

でも。謝罪はなかった。

 

◇

 

翌日、龍斗さんはいつもより早く帰宅した。

 

「夕食は?」

「食べていません」

「俺も」

 

龍斗さんが立ち上がる。

 

「何か作れる?」

 

私は一瞬、言葉を失った。手首が痛むのに。それでも。

 

「……はい」

 

キッチンへ向かう。右手が痛い。それでも。夕食を作った。包丁を持つ手が、わずかに震える。龍斗さんは黙って食べている。私も向かい側に座った。食卓には、いつものような会話がない。フォークの音だけが、冷たく響く。そして。食事を終えた龍斗さんが、ふいに言った。

 

「これ」

 

テーブルの上へ、紙袋を置く。

 

「何ですか?」

「開けろ」

 

私は袋を開けた。中には、また高級ブランドのバッグが入っていた。滑らかなレザーが、指に触れる。

 

「……」

「この前、欲しがっていただろ」

「欲しいなんて言っていません」

「女なら欲しいだろ」

「……」

「持っていろ」

 

私はバッグを見つめた。今、欲しいものは。こんなものではない。

 

「龍斗さん」

「何だ?」

「私が欲しいのは、バッグじゃありません」

「じゃあ何だ?」

 

私は龍斗さんを見る。

 

「謝ってください」

 

龍斗さんが固まった。

 

「……何で?」

「この怪我のことです」

「事故だろ」

「事故でも」

 

私は静かに言った。

 

「グラスを床へ叩きつけたのは、龍斗さんです」

 

「……」

「怖かったです」

 

龍斗さんは黙っている。

 

「怪我をして、病院にも一人で行きました」

「……」

「それなのに、何もなかったみたいにバッグを渡されても」

 

私は首を横に振った。

 

「嬉しくありません」

 

龍斗さんの顔から、少しずつ余裕が消えていく。唇が、わずかに歪む。

 

「……悪かった」

「……」

「これでいいか?」

 

私は小さく頷いた。

 

「はい」

 

でも。胸は少しも軽くならなかった。謝ってほしかった。ただの言葉ではなく。本当に、自分が悪かったと思ってほしかった。けれど。龍斗さんには、それがわからない。私はバッグを紙袋へ戻した。

 

「今日はもう休みます」

「由紀江」

「はい?」

「そのバッグ、使えよ」

「……考えておきます」

 

私は寝室へ向かった。背中に、彼の視線が残る。

 

◇

 

ベッドへ入っても眠れなかった。隣では龍斗さんが眠っている。規則正しい呼吸だけが、静かな部屋に響く。私は右手首を見つめた。まだ痛い。包帯の下で、鈍い痛みが脈を打つ。けれど。それ以上に、胸の奥が痛かった。私はこの人を愛していない。それでも。夫婦になった以上、少しは大切にしてもらえると思っていた。怪我をしたら心配してほしい。怖かったと言ったら、謝ってほしい。それだけだった。私は目を閉じた。――男の子を産めば、自由になれる。その言葉を思い出す。義母から教えられた唯一の逃げ道。だったら。早く子どもを授かればいい。そうすれば、この生活から離れられる。そう思った。

 

◇

 

一方。龍斗は眠っていなかった。暗い寝室の中で、目を開けている。隣から、由紀江の寝息が聞こえる。いつもなら。家に帰れば、由紀江がいる。食事を作っている。自分を待っている。少し怒っていても、翌朝にはいつも通りに話しかけてくれる。それが当たり前だった。昨日。由紀江が一人で病院へ行った。自分を置いて。それが、妙に気に入らなかった。怖かった。けれど。龍斗には、その感情の正体がわからない。「……何なんだ」小さく呟く。謝罪の代わりにバッグを買った。これまでの女性なら、それで笑ってくれた。なのに。由紀江は笑わなかった。どうすればいいのかわからない。龍斗は隣を見た。由紀江は背を向けて眠っている。その距離が。今日は、いつもより遠く感じた。月の光が、彼女の肩を淡く照らしている。「……由紀江」返事はない。龍斗は目を閉じた。自分でも気づかないまま。由紀江が離れていくことを、恐れていた。

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